阪神タイガース

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日本一出世した阪神ファンどんでん

阪神タイガース(はんしんたいがーす「阪神」であって「犯珍」ではない)は、大阪市神戸市の間に位置する西宮市を本拠地とする、の一家である。阪神間の秩序を取り仕切る人間たちに飼い慣らされている。

摂津の虎軍団とも呼ばれるもアンチどころか、ファンからも「セ界最弱じゃないの?」なんて揶揄されていたりする、ある意味 最強軍団。京都が反目しているため関西近畿ではない。

球団創設以来、期待させるだけ期待させといて大一番でズッコケる伝統を見せてくれる集団である。

その戦いぶりに幾度も翻弄され、何度となく落胆させられようとも、時折みせてくれる信じられない勝利の喜びを忘れられない為に、どれだけ悪態をついても結局は応援してくれるという、半ば気違いと看做されている大多数の「熱狂的なオタク」の存在に支えられている事で知られており、大阪湾岸の阪神地域では、すら恐れる動物集団でもある。


目次

[編集] 概要

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ユーモア欠落症患者のために、ウィキペディアの専門家気取りたちが「阪神タイガース」の項目を執筆しています。
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長文を読めないバカな人のために、チャクウィキバカたちが「阪神タイガース」の項目を執筆しています。

大男(巨大人間)の集まりが球団として発足したのは良いけど、対戦相手が居なけりゃ話にならないので、野球仲間を募集した。

そこで話に乗ったのが、電車屋さんの阪神。「学生野球で盛り上がる甲子園に、もっとオモロイ野球を!!」って、ついつい勢いに任せて野球チームを立ち上げたのが、1935年の事である。その翌年にはそれら野球チームを統括する専門連盟が組織され、その一員として加わったんで、その春から開催された公式戦にも混ぜてもらったという。現在に続くプロ野球リーグ戦のひな型みたいなモンである、って事は一応、最古参のプロ野球団の1つに数えてもらえるようだ。

[編集] 歴史

[編集] 1リーグ制から2リーグ制の発足、第一低迷期まで

甲子園が大阪府に無い(兵庫県西宮市)のにも関わらず、大阪タイガースとして産声を上げた集団。

1リーグ時代では、大男(巨大人間)の集まりには何度も優勝されていたけど、大男を差し置いて優勝を4度もカッさらったなど、戦力不均衡の中でも上々の戦績を残している。
巨人-阪神戦におけるファンの様子。球場の外まで盛り上がりを見せている。

やがて1950年から、リーグは新興集団を加えた上で2つに分割された。その際には、東西の両人気動物集団を中心とする構想があった。セントラル・リーグの中核に大男(巨大人間)の集まりを定め、並立するパシフィック・リーグの中核へは阪神地域の虎集団を分出させといて、この業界を盛り上げようというものだったそうな。ところが、虎集団は人気があった大男集団との興行権に目が眩んだために、大男リーグの方へ、ホイホイと犬のようについていった。これが、今日まで虎集団がセントラル・リーグに属している経緯である。同時に、パシフィック・リーグが幕開けの当初から長期月見草時代に突入していった原因ともなっている。

しかし恥も外聞も無く、大男に尻尾振ってついてったポチには、きつ~い御仕置きが待っていた。新興集団による「選手引き抜き」である。おかげで、一時は「ダイナマイト打線」とまで呼ばれた煌びやかなオーダーで新リーグ戦に臨めたはずが、主力という主力をゴッソリと半数以上も引き抜かれたどころか、新入団予定の選手まで奪われたために、2リーグ発足時からしばらくは「骨抜き状態」で戦い続けた。対する大男なんて黄金時代と言われるほど人材が溢れており、優勝なんて当然無理だった。

それでもファンには、希望が残ってた。引き抜き対象だったのに残留してくれた4番打者藤村富美男の存在である。

チームがヨレヨレでも藤村のオッちゃんが、ガンガン打ってくれる。成績が伴う上に、芸人さんを思わせるような珍妙なプレーを見せてくれるサービス感覚にも長けていたという。それだけでファンは幸せになった。しかもそれが大男戦になると、彼らのリミッターは簡単に外れた。その様子を上の絵が、今日に伝えている。

[編集] プチ黄金期

1958年限りで藤村のオッちゃんが居なくなったが、その分村山実ムッシュなど新たな戦力が少しずつ育ってきた。なお、1961年になって「大阪タイガース」の命名のおかしさに、ようやく気付いた球団が阪神タイガースに改名している。

1962年、オッちゃんがパッカンパッカン打ってた頃とは対象的に、投手力を中心とし、守備力で支える。あとは野となれ山となれ戦術がズバリはまった。掠め獲った1・2点を守りきった戦いぶりで、ウッカリ優勝しちゃったのである。2リーグ分裂後ようやく初優勝という事態に、浮かれるファンと関係者。オープンカーを連ねるパレードを催されると、ファンは半狂乱化した。それが1964年にも優勝しちゃっている。でもこの年は、忙しかったのでパレード無し。

じゃあ2度の優勝で日本シリーズは、どうしたの?って、そこはまぁお察し下さい。。特に2度目なんて、誰も見ていませんでした。

なにしろ2度目は、日本シリーズの前日までペナントレースをやってたんで、前売りに頼れず、満足にチケットを売れなかったのだそうな。おかげで第1戦から2万人割れという寂しい集客である。

それでも熱戦が続けば、次第に盛り上がっていくのが例年の日本シリーズなのだが「この年ばかりは長引いては困る」理由があった。そういう年に限って10月10日の第7戦にまで、もつれ込む。

そう、のちに休日として定められた10月10日、国民どころか、日本シリーズに携わった選手や関係者でさえも待ち望んでいた東京オリンピックの開幕日と重なってしまったのである。

お客さんも正直なもので、第1戦を下回る1万5000人程度が甲子園に足を運んだだけ。オリンピック観たさに落ち着かない阪神は、対戦相手の南海のスカタンスタンカから、シリーズ3度目の完封を食らって白旗を揚げたのだそうな。

後述される「2005年の惨劇」ほどでは無いにせよ「貧打のオン・パレード」という、お恥ずかしい戦いであった。しかし、関心の薄さに救われ、世間には知られずに済みました。

[編集] 第二低迷期

1964年以降、またも低迷期に突入した。しかも今度は長い。それでもお祭り集団のみなさんが、ファンを辞めなかったのは江夏豊田淵幸一が居たからである。

チームの順位には直結しなくても、強烈な個性と成績で楽しませてもらえるだけでファンが満足した。どうやら、藤村のオッちゃんの頃と変わらない時代の再来である。それでもオッちゃんが1人で張り切るよりも、役者が多い分だけチーム順位の下落は小さかったので、悲観しなかったようである。

その江夏や田淵が選手としての全盛期を迎える頃には、チームの戦績にも直結しだした。そして、勝ちを譲り続けていた大男集団の9連覇をようやく阻む機会が訪れた1973年。熱戦を勝ち抜いて、残る2試合で1つ勝てば優勝というところまでこぎつけた。ところが、その2試合とも敗戦して大男集団に、またしても優勝を譲ってしまったのである。

話は、そこで終わらない。甲子園での優勝を盲信したファンは暴徒化。球場内に乱入するも怒りの矛先をチームに向けず、その最終戦の対戦相手だった大男集団の王貞治など主力選手に向け、彼らを襲ったと言うのだから驚きである。もちろん、選手へのお仕置きも狙っていた。でも控え室に立て籠もる選手には、日付が変わろうとも手を出せずに断念した。

なお、この年は情けない戦いぶりばかりが注目されるが、当時の監督であった金田正泰(第17代。自身にとっては第11代以来の第2次政権)がシーズン中に1度、そしてファン感謝デーの後に1度、それぞれ別の選手から殴られた、という物騒な逸話も残されている。
起用法への不満くらいなら多少の差はあれど、どこの球団でも有り得る話である。しかし問題は、日頃からトゲのある言動に不満を募らせる選手たちからの人望が無かったという、人間性にあったのだそうな。そこを采配の確かさ、などで黙らせられれば余程の手腕なのだろうが、最終戦を遡ること4試合、後楽園での巨人との直接対決で7-0でリードしていながら10-10のドローなどという煮え切らない、ツメの甘い試合で御茶を濁したのも優勝を獲り逃がした一因になっている以上、チームの求心力を保てなかったようである。

やがて、輝き失った江夏・田淵たちを放出。またチームの作り直しに歳月を費やし始めた。

[編集] 初の日本一

かつてのスター選手であるムッシュが2度目の監督に就任した1985年伝説級の大男とのシーズン最初の3連戦をバックスクリーン3連発に代表される奇跡的勝ちっぷりで乗り切ると、凶暴な竜素早い燕気荒な鯉悠長な鯨を相手にしても勝ち星を重ね続けた。

終わってみれば219本のチーム本塁打を挙げる猛打で、21年ぶりの優勝。日本シリーズでも勢いそのままに、初の日本一に輝いた。

ただ、かつて暴徒化したファンは勝っても暴徒化した。しかも、やってはいけない事をやってのけたファンによって、野球の神様による御仕置きがマムシの毒のようにチームを蝕みだした…。

[編集] 暗黒時代

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長文を読めないバカな人のために、チャクウィキバカたちが「阪神暗黒時代」の項目を執筆しています。

[編集] 第1暗黒期

1987年あの日本一からわずか2年後とは思えないほど勝てなくなった。2度の8連敗に代表される、借金42(83敗6分)という散々たる負けっぷり。当時、ただ1人でチームの沈没を救おうとしておられたオクラホマから降臨された現人神の打率すら下回るのでは…と冷やかされた案じられた、チーム勝率.331は現在まで更新されることのない球団ワースト記録である。大暗黒時代の幕開けだった。口の悪い人は、この頃からの球団を「張子の虎」とか「ダメ虎」と揶揄していた。

何しろ1987年から1991年までの5シーズン、130試合制で50勝すら出来ないシーズンが2度。60勝が1度も無いのである。

1988年にも純8連敗と、引き分けを含む8連敗を1度ずつ記録。もはや3・4連敗なんて当たり前になっていた。

開幕5連敗でスタートした1991年にも8連敗を記録したが、これだけじゃなかった。6月に入った途端、「ひとあし早い梅雨入り」と言われた1勝を挟んだだけの10連敗・7連敗を記録。シーズン終盤にも駆け込みの7連敗を記録した。

当然のように5シーズンで最下位が4度1989年だけが、シルバーシートを譲り合う老人たちのような横浜との最下位争いを制して5位になった程度。見事に、ダメっぷりを見せ付けてくれました。

[編集] たった1年の輝きと、忍び寄る魔の時

あの藤村のオッちゃんが亡くなった1992年、ズタボロの投手陣整備に重点を置いた選手獲得が実を結んだのか、それともオッちゃんが影ながら力を与えてくれたのか、ダメなチームが勝ち始めた。1986年以来の60勝突破、優勝争いにまで絡む躍進である。9月には、冗談抜きの優勝さえ見えてきた。

ただ、そこは阪神。お家芸ともいえる結末が待っていた。

その9月に入って引き分けを挟む7連勝で甲子園を離れた後の長期遠征、ビジター13連戦で4連敗・2連敗・4連敗の大炎上(内、1点差負けが7つ)。ツバメ球団に復調の機会を与えてしまう。

優勝を賭けた10月10日の甲子園決戦でも、勝負弱さは変わらず。ツバメに2-5で負けて、目の前で胴上げされた。

でも、たった1年程度で投手王国などという思い上がりも甚だしい当シーズンの善戦をマグレとは思わず、ホントに優勝できると思ってオフには戦力増強を企てた。それが当時のエース・野田浩司を手放してまで獲得した、最凶最強のスイッチ・ヒッターとの呼び声高い松永浩美の加入である。

1993年の開幕戦。5-12の大敗を喫するチームの中で、5打数5安打と1人で気を吐いて移籍デビューを飾った松永であった。後半戦からは背番号を02に変更する奇抜さ、85年の真弓ですら出来なかった「3戦連続の先頭打者本塁打」を記録するなど、話題に事欠かない存在価値を示している。ただ、最強の所以であった「長打力と並存する機動力」がサッパリなほど脚の状態が悪く、80試合程度の出場に止まった為に必ずしも獲得成功とは言えなかった。それでも「1年目なんだし、体調さえ整えば2年目からは挽回できる」と周囲に期待を持たせるような輝きを、断片的に見せていた。
なお、チーム全体を見渡すと、松永の獲得だけで得点力向上を目論んだ歪みが、外野へコンバートさせられた助っ人のパチョレックに最も影響した。前年、躍進の原動力となった中軸打者なのに打点が88→36まで激減したのである。その激減分を松永を始めとする他の選手でカバーできなかった訳だから、かえって得点力を低下させているチームは前年とは全く逆の勝敗(67勝63敗→63勝67敗)という、4位でシーズンを終えたのだった。
ところが、チームの内外にはオフになって激震が走った。「FA権を取得した松永による、何のためらいも無い福岡への移籍」である。結局「あれほどの出血をしといて、野田も松永も、何も手元に残っていない」という、誰もがキツネに摘まれた心境であった。その背番号02は現在でも黒歴史として、松永在籍の事実ともども厳重に封印されている。

なお1994年までは前々年の余力だろうか、3シーズン連続で60勝突破。前年同様4位に踏みとどまる事が出来た。しかし、このオフには数少ない得点源であり、働きの見込める陽気な外人のトーマス・オマリーを放出。浮揚し始めたチーム成績に並び立たない、球団による無計画とも言える戦力整備の姿勢が、みんなの知らない内に再び厄災を招き入れていた…。

[編集] 第2暗黒期

1995年には再び暗黒時代に突入、この年だけで5度の5連敗を成し遂げている。だが、それ以上に当シーズンを象徴していたのが、夏場に喫した1勝ずつを挟んだだけの5連敗・9連敗・5連敗という大盤振る舞い。しかもこれは甲子園14連戦で1つしか勝っていないというダメっぷりである。ちなみに放出したオマリーなんてツバメで大活躍と、踏んだり蹴ったりである。

1997年から、ムッシュには3度目の監督に就任してもらい、立て直しを図ろうとも無理なものは無理。この年を物語っているのが、「新害人マイク・グリーンウェルの、神のお告げを受けたなんてテキトーな理由による、たった7試合出場での自主退団」である。

大金を積んでまで主砲に据えようとした構想を、木っ端微塵に吹き飛ばされた球団。ここから、動揺に駆り立てられた迷走が始まった。

そこで切羽詰って、味噌カツ球団が使い古したダネル・コールズなんか拾ってきた、という慌てぶり。案の定、この年で即解雇。ココで終わらせとけば良いのにオフには、使い古しの第2弾アロンゾ・パウエルまで拾ってくる始末。動けない・ヒザが悪い、との懸念で放出された外人を獲得してまで戦力整備?に努めた。

[編集] まだ続く第2暗黒期

この97年オフには、阪神の運命を大きく変える事となった、久慈照嘉関川浩一大豊泰昭矢野輝弘という大きめなトレードも断行している。これには、

  • 関川浩一の捕手としての能力が、あまりにお粗末であったから
  • 矢野輝弘の顔がお馬さん(中日の2番手捕手をやる中で狸から、お馬さんに進化したものと考えられ…)であったために、じゃあ阪神で活躍する(阪神では馬面の外様が活躍する)かなぁ…という単なる希望的観測

などが理由に挙げられている。もっとも、このトレードに限っては大成功、阪神黄金時代への礎になったことは誰もが認める話である。

しかし、それは2000年代になってからの話。「あの人物」の監督就任が功を奏した、偶然の産物に過ぎない。この頃すでに正捕手を外され、外野手としての活路を模索していた関川から、同じく外野との2足のワラジであっても中途半端な境遇の矢野に替えて何が変わるのか?という、「松永トレード」で懲りてないような球団のやり方には当時の、お祭り集団の多くが激怒した。

1998年には案の定、いや、お祭り集団の想像さえも遥かに上回る怒涛の12連敗という球団記録を打ち立てた。

ちなみに味噌カツ球団から廃棄された、脂身のような3人は どうだったのか?というと、パウエルなんて4番起用スタートから尻すぼみの代打要員への転落、やはりシーズン終了を待たずに解雇。矢野に至っても「あの人物」との出会いが無いのだから、覚醒の兆しすら無かった。せいぜい大豊の21本塁打(打率.231・三振94)で満足するくらいしか、救いが無かったのである。他にも、久慈を放出したのも密かに痛手。若手の今岡誠に替わった遊撃では、守備範囲が著しく狭小化した。

[編集] 終わりの見えない第2暗黒期

どうにもならない状態に、とうとう1999年になって嫌々だったけど、「あの人物」に監督を要請するほど追い込まれた。そう、ツンデレのジジイである。

この想像を絶する弱さにはジジイでも混乱したのか、「一試合に2人のピッチャーを2度ずつ使う」などの奇行に走るほどであった。一時は応急処置になっただろうが、長年染み付いた体質なんて1年だけで改まる訳が無い。

我慢して戦い続けたたものの、7月に喫した2度の4連敗が微震となっただけで、もうチームは動揺。直後にキングボンビーに取り憑かれた9連敗である。序盤に積み立てた、僅かばかりの貯金を散財し始めた。しかも、それだけでは終わらない。9月にも直下型12連敗が直撃。阪神だけが未だに大震災に見舞われていたのであった。対象的に、あのトレードで放出された関川なんて、味噌カツ球団リーグ優勝の立役者とまで持ち上げられており、「あのトレードは何だったんだ!!」と、お祭り集団のみなさんの中で再びバクハツを誘発させている。

結局、2001年まで4年連続最下位を記録するなど、ジジイでさえも手に負えぬ瀕死状態にまで陥っていた。お祭り集団もそんなチームを半ば見放していたため、甲子園の空席だらけのスタンドは夏でも寒々しい有様であった。

でもジジイは、チームに希望を残して去っていった。ただ、この時点では黄金期が訪れるほど、とは誰も思っていない…。

[編集] 阪神暗黒期伝説

吉田第2期監督時代の終わりである1987年から野村監督時代が終焉する2001年までの15年間で、最下位10回に対しAクラス入りは僅か1回。これでもチーム順位とは別に球団のヒーローにでも注目できるのだったら、まだ救いもあった。今のこの球団のように

しかしこの15年に及ぶ阪神暗黒時代は、藤村のオッちゃんは愚か江夏や田淵がいた頃のような楽しみすら全く無い、空虚な時代であった。下に記したのは大暗黒時代(1・2期両方を含めて)における諸種エピソード、そのほんの一部である。

  • 3連戦のうち1試合は勝つと思って3試合のチケットを取ったら、3試合とも完封負けだった。
  • 9回表を終えて5-0でリードしていながら、9回裏だけで6点を奪われてサヨナラ負けを喫した。
  • バース2世と評され、全く活躍せずすぐ帰国してしまう外国人選手が毎年きた。
  • ファン感謝デーで、2軍選手がたけし軍団と試合をやって負けた
  • ファンは完全に悟り、負けることを前提として試合を楽しみに来ていた。そして勝った時は馬鹿騒ぎし、球場周辺は無法地帯と化した。
  • 負け試合を見に行ったことを「芝生鑑賞」「高校野球の下見」「西宮小・中連体の下見」と呼んでいた。
  • 「二度と来るか」と暴言を吐いて球場を去った人が、翌日も変わらず球場へ試合観戦に来ていた。
  • 試合途中からテレビ中継が始まったとき、既に阪神の先発投手は降板していた。
  • シーズン中、3日に1回はファンを辞めようと思っていた
  • 1回の攻撃、1番和田豊の応援歌を歌い始めた時が、試合で一番楽しい時だった。
  • 甲子園に来たときの一番の楽しみは、トラッキーのパフォーマンスだった。
  • 周囲がまだ半袖の時から始まるストーブリーグ。それもまだ着始めた頃
  • 高校野球常勝で知られるPL学園より弱いと、毎年のように騒がれていた。
  • そのおかげで、「最下位はサッカーリーグのようにPL学園とリーグ入れ替え試合を行え」という冗談が冗談に聞こえなかった。
  • G党アナウンサーは1985年、「阪神の好調はハレー彗星(の到来)と同じくらいの珍事」と言ったが、それが真実に思えた。
  • 毎日のように負けていたので、デイリースポーツ大本営発表もどきの報道をした。2連勝でも「破竹」扱いされた。
  • 前日に3回持たずに降板させられた先発投手が、翌日には6回から敗戦処理として登板していた。
  • ヒーローインタビューで新庄剛志が「明日も勝つ!!」と発言すると、次の試合から怒涛の12連敗
  • 絵馬や短冊に「阪神優勝」を書き願う人がいた。「優勝はしなくてもいいから5位になってくれ」というものもあった。
  • 父親に阪神が弱い理由を尋ねたら、「阪神だから」と一蹴された。
  • 読売巨人戦で3タテすると、半年間はその話だけでファンが盛り上がることができた。
  • 東京スポーツに「評論家によるセリーグ最下位予想で阪神1位」と書かれた。
  • 1992年の2位を「準優勝」、最下位脱出を「セリーグの5本の指に入った」、最下位を「6位入賞」ないし「定位置」と呼んだ。
  • 序盤で一時的に首位となった時、それに最下位を抜ける度ごとにファンが道頓堀へ飛び込んだ。
  • 球団60周年の1995年に「阪神はいつ60勝するか」というクイズがサンテレビから出されたが、46勝しか出来なかった
  • やけくそで1998年4月1日に監督が「阪神優勝!」というエイプリルフール記者会見をしたが、その年も最下位だった。
  • ファンが球団に抗議するため、応援を一時やめてしまった。スタンドはほぼ無人状態となった。

[編集] 黄金期の到来

2002年監督が星野仙一に代わったが、2003年、前任のツンデレのジジイによってチームに加えられた選手(赤星憲広藤本敦士)たちと、覚醒のきっかけを与えられた既存の選手(矢野輝弘・井川慶)たちが、ようやく本領を発揮。シーズンの序盤からラストスパートのような勢いで飛び出したチームの原動力として、見事に18年ぶりの優勝へと導いた。長い間お祭り集団が待ち焦がれた、あの優勝は野村によってもたらされたもので、決して星野の手腕だけで導かれたものではない、といえる。ええ、星野による長嶋巨人的な金満補強をファンは無視します[1]

2004年からはどんでんに率いられ、再び脅威となったに挑むことになった。どんでんを始め、藤川大和今岡など面白フェイスが多い球団となった。

2003年に続き2005年にもリーグ優勝を果たした。この頃は1990年代まで栄華を誇っていた大男集団がガタガタ状態(2001年からの5年間で監督が3回交代し、球団初の4年連続V逸を記録する)に陥り、「虎と大男が入れ替わった」・「虎の時代の到来」と呼ばれもした。しかし、2003年の日本シリーズでは「野球をするタコ「世界の王」こと王貞治率いる鷹軍団に惜敗。2005年のそれについては後述する

なお、2006年に買収騒動のゴタゴタで親会社の阪神電気鉄道阪急電鉄に吸収されたため、現在の阪神タイガースは正式には京阪神急行タイガース(通称:阪神・半球阪急)となってしまったが、阪神ファンはまだ誰一人として気付いていない。要するに阪神タイガースはかつての阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)と義理のになったって事か?それなんてエロゲ?

2007年は大男や竜との混戦の中で、両者から引き離されたところを連勝で追いつく快進撃を見せたが、その後同じペースで今度は連敗を重ねて3位で終わり、プレーオフでもそれと変わらない試合を見せ、あっけなく終戦に至った。

その反省か、2008年は序盤から一気に飛ばした2003年と同様に、一時は他球団ファンを沈黙させたかに見えたが…これについても詳しくは後述しよう

  1. ちなみに、監督に星野を推薦したのはツンデレのジジイだが、その理由は「選手を殴ってくれるから」という一点だけであり、采配についてはまったく評価していない。それどころか「島野がいなければダメ監督」と今でもあちこちで言っている。これに限ってはある意味デレツンである。

[編集] 2005年 秋の悪夢

岡田阪神の惨敗に、ファンから吹き上がる「怨嗟の気」。球場の外からもハッキリと見てとれる

2005年、リーグ優勝を果たした阪神。ファンのみなさんが「お口の恋人しばいたれ」を合言葉とするほどの日本シリーズに臨むべく、終盤戦での競り合いを勝ち抜いたチーム状態そのままに、意気揚々と千葉へ乗り込んだ、はずだった。

それが、初戦から投手陣が滅多打ちにされたばかりか、2戦連続の10失点という公開処刑に遭う大惨事(うち1試合は霧によって、処刑を途中終了してもらった)。

「まだ2試合くらい大丈夫。さぁ甲子園へ戻って仕切り直しだ!」という展開を選手もファンも、誰もが期待した。ところが、またしても10失点。これで3戦連続である。

その3戦とも、あまりに一方的な試合内容の為に、出番を失った相手チームの幕張の劇場王防波堤・コバマサでさえも吃驚な、炎上ショーであった。そうなると、もうお手上げ。『逆立ちしたって勝てっこない』という暗黒時代さながらの空気に包まれてしまったのである。

結局、千葉の黒船なんてマイナーチームから4試合で、たった4点しか奪えずにボロ負け。
「これのどこが日本シリーズなんだ(怒)!!」との、お叱りを浴びるほど何の見所も無い、お恥ずかしい試合の数々であった。

終始そんな展開だったので特に大阪辺りでは、この話題を出すと、もれなくバキューン

[編集] 2008年 秋の悪夢再び

日刊スポーツグラフ V逸記念号「何がVやねん!タイガース」

2008年、虎集団はペナントレース序盤から飛ばしに飛ばし、最盛期には宿敵の大男集団に13ゲームもの差をつけ、今年こそ間違いなく優勝やで!! と教徒を狂喜させた。

しかし、夏が過ぎ赤とんぼが飛ぶ頃に雛見沢症候群を発症し、運命の10月8日にトキオドームにて雛見沢症候群L5を発症し、監督以下全員が喉を掻き毟って禁則事項です。大阪では虎狂人ファン数名が同じく道頓堀に飛び禁則事項ですサンダースおじさんは安堵したが……。

そして10月10日、なんとか生き残ったバカモノと恥晒しどんでん・選手達は横浜までノコノコ出かけといて、粛清中の鯨に殺された為、13ゲーム差をひっくり返されて大男集団の優勝に貢献するという、プロ野球史上に末代まで残るであろう「どんでん返し」を行った。なお監督のどんでん(返し)はファンにせがまれ切腹を行ったらしいが、誰も気にしない。だけどセ・リーグ2位の監督が引責辞任したというのに、Bクラスの監督が誰一人辞めないという事態は、ちょっとよく解からない。

そしてクライマックスシリーズ1stステージにおいて、俺竜軍団に案の定、止めを刺された。球ちゃんが打たれちゃどーしょーもないとばかり、みっともなく負けたくせにどんでんは清々しく宙に舞った後、グラウンドに叩きつけられて禁則事項ですだ。

若手も岡田時代に大きく腐敗し、二軍なのに高級車を乗り回す選手が続出している。

[編集] 2009年 暗黒の復活?

阪神タイガース/2009年も参照。

どんでんの後任監督として、85年の日本一メンバーであり、90年代に代打の神様と崇められた真弓明信に託されたチーム。いざ、09年ペナントレースが始まってみると5月以降は、動いても動かなくてもウラ目という新監督の采配が猛威を振るう。とうとう借金14まで膨らんだチームは、3位のツバメに13.5ゲーム差をつけられた5位で前半戦を終えた。むしろ、下の横浜と5ゲーム差しかなかった…。

それが後半戦になってチーム状態が上向いた為、くだらないクライマックスシリーズへの出場権が見え始めたのである。やがて9月にはツバメを追い抜いた3位浮上。諦めさせていた お祭り集団を盛り上げて見せた。…なんて、勇ましく聞こえるが実は「ツバメの大失速によるタナボタ」である。

そして、神宮球場におけるツバメとの勝率5割未満同士の低レベルな最終決戦の2連戦に臨むも、2つとも落とすドッチラケを演じ、いくら監督を替えようとも阪神の『伝統』の戦いぶりまでは改まらないことを見せつけたのだった。

[編集] 来季に向けて

それでもオフにはジョージ・マッケンジーを獲得、来季への巻き返しの姿勢を窺わせた。ところが翌月には、赤星の引退表明である。シーズン中どころかオフに至っても『盛り上げさせといて、必ずズッコケる』という『伝統』を貫いた1年であった。

[編集] 拉致事業

近年、球団やファンはドラフトでの意中の相手を勝手に「虎の恋人」と呼び、勘違いちゃんの様な思い込みから告白指名をするが、肝心の意中の相手には逃げられる、もしくは他球団からねるとんでいう所の「ちょっと待ったコール」での競り負けが多々ある為、「有能な若手が穫れないのなら他球団から穫ってくればいいお!!」と考えるようになった。

巨人の補強は汚い補強、虎の補強は綺麗な補強」を合言葉に拉致事業によって積極的に戦力を拡充する動きが盛んになる。

しかし、「綺麗な補強により選手をピンポイントで補強しているので読売とは違う」と主張しているが、読売ばりに手を広げて獲得に乗り出すも条件面でメジャーや読売に負けて選手の獲得を逃しているのが現状である。要は読売ほど資金力がなく選手が取れなかったことに対する負け惜しみである。


主なターゲットは球団に資金力がない広島東洋カープの選手であり、金本アニキといった選手を拉致し縦じまのユニフォームを着せることに成功した。この獲得はチームに大きな変化を呼び込み、この成功に味をしめて広島の四番を拉致することは球団にとってのライフワークとなった。

04年オフにはアニキ亡き後の広島の四番を務めていたシーツを札束攻勢で獲得、同年よりクリーンナップに広島の四番打者を二人据える、俗に言う“広島タイガース”方式を確立することとなる。

08年は衰えたシーツを引退させ、北京オリンピック代表監督となった闘将自らがFA行使前の交渉禁止期間中であった代表組公開練習中にタンパリング直接交渉に挑み、またしても広島の四番を務めていた新井貴浩を獲得。

見事“広島タイガース”方式の継続に成功した。なお2010年現在でこの体制は6年目を迎え、同一球団の複数人の四番打者が6年間もチームの主軸となる大変珍しい事態が継続中である。さすがの巨人でもそんなことはしない?? あ~~、 聞こえんなぁ!!

専門家によると積極的にを取り込むことによってチームカラーの黄色を薄め、オレンジに近づこうとする深層心理が働いている面も強いと分析している。これは関西独特な関東コンプレックスの裏返しによる衝動であり、上記の汚い補強といった罵倒や関西の中心地大阪の国旗などもいわゆるツンデレである。本質的に読売と阪神は極めて近い存在であり、それゆえ表面的には反目しているといえるだろう。原辰徳が監督をいっぺん辞めさせられたとき、甲子園で星野が何をやったかを考えれば一目瞭然である。


このように広島から選手を拉致しているイメージが強いが、実は北の荒熊からも、かつて読売の軒下を借りていた頃からちょくちょく選手を拉致している。具体例は八木ほどじゃないけど代打男とかラガーかわいいよラガーとかライオネルリチ男こと馬とか。最近では外国人監督の顔も見たくない本名・秀雄10分の1の年俸(2008年当時)の選手で一本釣りするなど、拉致のテクニックも向上している。

このような拉致事業を、球団紙であるデイリ~スポーツ(←これはタイガースが勝った時の表記)はこともあろうに予想して記事にしてしまうので、近年では阪神ファンからも煙たがられている。一説には、球団の拉致事業を助けるためのカモフラージュをしているという説もある(そのためか予想記事には「飛ばし」も少なくない)。

田淵幸一(西武内野手)、関川浩一(中日外野手)、北川博敏(近鉄内野手)のように移籍してコンバートされる捕手が多いといった特徴があり、これを世間では”タイガーマスク理論”と呼ばれている。

[編集] 摂津におけるタイガース信仰

虎教徒の活動一例

摂津、特に大阪民国において虎は神格視されており、虎教のように信仰の対象にもされている。そして、同じ摂津(兵庫県)の西宮市聖地においては「虎崇祭」が3月から10月頃まで催され、いつも7回の攻撃前には、空にむかいコンドームを打ち上げて大男ファンを挑発している。なお甲子園での祭事中に吹き荒れるのは浜風であり、六甲颪ではない。六甲颪は彼らのキャンプ中に吹く風である。彼らにとっては関西=阪神、野球=阪神なのである。

マスコミもサンテレビジョンを中心として阪神の報道一色であり、阪神の試合がテレビ中継された場合は、試合終了まで放送を延長するのが当然とされている。またシーズンオフも何かと理由を付けて阪神の話題を取り上げており、他のスポーツのニュースは二の次、三の次である。もっとも阪神の暗黒期には近鉄・オリックスの話題も取り上げていたが、やはり中心になるのは阪神であった。この様に某北の国並みの報道管制を敷くことで、阪神人気を煽動先導している。

また、2006年に村上ファンドの攻撃を星野組幹部が退けた後、阪急電鉄を核とする阪急王国が阪神間の秩序を取り仕切る人間たちの属する組織(阪神電気鉄道)を乗っ取ったため、球団名を1961年まで採用していた「大阪タイガース」に戻そうという動きが見られたが、「阪神」の語は親会社の組織名のみならず、「阪神地域」を象徴するものであることから、兵庫県全体、特に神戸(サンテレビ・デイリースポーツの所在地)や西宮(上述したように甲子園のある地)より猛反発を受け、無かったこととされた。

ただし、畿内でも京都府では、「昔から『アンチ阪神』の傾向が強く、『大男ファン』になる人が多い」との話がベバリッジ報告によって記されており、また最近では「地元のサッカーチームのファンになる人も出て来ている」との話もあり、無視することができない。

シーズン後半は大阪のあちこちの商店街などで阪神の応援幕が垂れ下がっているので、間違ってターバンにしてしまわないよう注意が必要である。店内までもが阪神色に染まっている店も存在し、他球団ファンはシーズンが終わるまで他地域に疎開する。

[編集] 球団名についての阪神地域民の認識

上でも若干触れたが、阪神甲子園球場のある西宮市の住民に対してだけでなく、尼崎市芦屋市神戸市など阪神地域と総称される一帯の人々に対して、「『阪神タイガース』より1961年以前のチーム名である『大阪タイガース』の方が良い」などというと、彼ら全員を敵に回すことになるため、注意が必要である。

彼らは「阪神タイガース」の「阪神」は「阪神電気鉄道の略」ではなく、「大阪と神戸、およびその中間地帯」だと認識しており、「12球団中、唯一社名を冠していない球団が阪神タイガースである」と固く信じているからである。

よって「阪急電鉄に買収されたから『阪急タイガース』に改称しろ」とかいうのも、やはりタブーである。

ただ、そんなことを言うのなら、『中日』ドラゴンズ(中部日本)や『埼玉西武』ライオンズ(西武蔵野)も社名を冠してないような気がするのだが、自分の贔屓チームこそ唯一にして特別であると痛々しい勘違い認識をしている阪神ファンに理解を求めるのは酷というものである。ましてや「12球団中、本当に社名を冠していない球団は『横浜』ベイスターズだけ(親会社はTBS)」なんて言っても誰も聞いてくれない。

[編集] 主な選手

[編集] 投手

[編集] 捕手

[編集] 内野手

[編集] 外野手

[編集] 育成枠

[編集] かつて在籍していた選手、または監督

80年代
  • ムッシュ - 日本一になった時の第23代監督(第18代・27代監督でもある)。球団歴代でも最高の内野手。
  • ランディ・バース - 80年代はおろか、球団歴代でも最高の。現在でも崇拝する人は多い。
  • どんでん - 日本一の時の5番打者。2000年代の第30代監督でもある。
  • 真弓明信 - 日本一の時の1番打者。どんでんの後継、第31代監督でもある。采配ぶりはお察し下さい。
90年代
  • トーマス・オマリー - 暗黒時代を代表する主砲。CDデビューのために来日した。
  • 藪惠壹 - 暗黒時代を代表する、かつてのエース。複雑な名前ではあるが、日本人である。
  • 湯舟敏郎 - こちらも暗黒時代のエース。今は焼肉店経営。
  • 野村克也 - 第28代監督。2000年代の主力選手獲得に貢献。
  • 八木裕 - 正真正銘、代打の神様。2000年代に現れたのは、ニセモノで役立たず。
  • 砂場 - 暗黒時代における最大の敵。
  • 神のお告げ - 暗黒時代における最大の敵その2。
2000年代


[編集] 主なファン

[編集] 関連項目

タイガース関係
野球全般関係
組織・地理関係