マリア・フォン・トラップ
出典: へっぽこ実験ウィキ『八百科事典(アンサイクロペディア)』
マリア・フォン・トラップ(Maria von Trapp,1905年1月26日 - 1987年3月28日)は、オーストリア生まれ。本名マリア・アウグスタ・クチェラ(Maria Augusta Kutschera)。影の薄~~~いオーストリア海軍の軍人で、オーストリア海軍の東郷平八郎とも言われる国民的英雄ゲオルグ・フォン・トラップと結婚し、亡くなった前妻の子供たちと自らの子供たち(総数12人!!)でトラップ・ファミリー合唱団を結成して有名になる。彼女の自叙伝に自由な脚色を加えてつくられたのがミュージカル・映画『サウンド・オブ・ミュージック』であることはとりあえず有名。 なんと来日したこともある。
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[編集] 誕生から青年期
生まれてすぐに母を亡くしたマリアは、父の手で親戚に預けられたが、その父も九歳のときに失った。定番通り預けられていた親戚との折り合いが悪くなると、彼女は家を出て全寮制の学校に入った。
この頃ファーザー・コンプレックスが醸成されたと考えられる。
音楽が好きだった彼女は青年たちのグループに加わってオーストリアの民謡を習った。もともとキリスト教に反感をもっていた罰当たりな彼女は音楽を聴きたいためだけにカトリック教会のミサに預かっていたが、やがてキリスト教に心を惹かれると言うより転向した。
[編集] 運命の出会い1
信仰を徹底しようと、ザルツブルクにあった女子ベネディクト会のノンベルク修道院に志願者として入ったが、やっぱり修道院の暮らしになじめず体調を崩した。そこで院長の勧めでと言うより体の良いやっかい払いで修道院を離れ、絶対に目的は違うとも考えられるが、『名目上』、娘マリアの家庭教師を探していたトラップ家に住み込みで働くことになった。これがいろんな意味でエラい事になる。
[編集] 運命の出会い2というよりトラップを仕掛けたのはトラップ家の父か子か?
1926年に、とにもかくにもトラップ家にやってきたマリアは、もともと音楽が好きだった(←じゃぁ、音楽教える必要ないじゃん!)七人の子供たちと心を通わせるようになり、子供たちとハイキングに出かけたり、バレーボールやサイクリング、ダンスなどであの手、この手と、手なづけていった。やがて、マリアのファーザー・コンプレックスに火をつけた、トラップ家当主で子供達の父親のゲオルク・トラップ艦長(←約45000トン撃沈;マリアテレジア勲章受賞、ドイツ功一級鉄十字賞受賞)と心を通わせる(よくある話ですな。)ようになり、1927年11月27日にノンベルク修道院で結婚式をあげた。このとき父親のゲオルグは47歳であり、25歳の差である。子供たちは長男ルーペルト16歳、長女アガーテ14歳、次女マリア13歳、次男ヴェルナー12歳、三女ヘートヴィック10歳、四女ヨハンナ8歳、ルティナ6歳であった。
トラップ艦長の戦友と部下たちはこう思ったに違いない。 ↓
ちきしょう!25歳も年下の嫁ゲットしやがって!うらやましいもんか!うらやま・・・うらやましいに決まっているだろう!ゴルァ!!!
だがよく見ると、家庭教師として赴任してから1年くらいで結婚とは、トラップ少佐もなかなかスミにはおけない人である。というより、狙っていたのか?
[編集] 25才の歳の差を押しのけて
火のついてしまったファーザー・コンプレックスと窮屈な修道女と違う主婦業がマリアの心を解放したかどうか分からないが、やっぱり夫婦として頑張る事は頑張ったのである。それから、『建前上』、カトリックでは、修道女は処女で無ければならない。神父は童貞である。 結婚当初処女だったどうかは検閲により削除(バカチン市国脅迫による)
やがてゲオルクとマリアの間にもローズマリー、エレオノーレ、ヨハネスという一男二女が生まれ、12人の大家族になる。テレビがあったら、取材ものである。 ヨハネスが生まれたとき、一番上のルーペルトは「28歳」である。悩んだに違いない!
[編集] ヨーロッパで、大儲け
1933年、オーストリアを襲った金融恐慌によってトラップ家の財産を預けていた銀行が倒産し、財産を失った。ちなみにその財産とは、トラップ艦長の前妻が実家から相続したもので、その実家とは、ホワイトヘッド魚雷のホワイトヘッド家で、財産とは特許料である。その頃知り合ったフランツ・ヴァスナーという神父は、グレゴリオ聖歌に精通しており、兄弟姉妹の歌の指導をするようになった。さらにひょんなことから1935年のザルツブルク音楽祭に参加し、ヴァスナー神父の指揮で兄弟姉妹と母親で歌ったところ、他の熱心に練習していた参加者の面目を潰した上で、優勝してしまった。良くある事である。以降、この合唱団は人気となり、やがてヨーロッパ全域を回り、「トラップ室内聖歌隊」という名前でコンサートをおこなうようになった。このあたりは世界名作劇場のトラップ一家物語を見ろ!見ろったら見ろ!!(ザルツブルグ市当局行政指導)
[編集] 亡命、(けっして、脱○して中国へではない)
1938年、オーストリアはナチスに併合された。ちょうどその頃、アメリカ合衆国のCIAではないエージェントから公演の依頼を受けていたこともあり、家族でオーストリアを離れることになった(ナチ党員だったにもかかわらず一家に同情的だった執事が亡命を進言した)。一家と行動を共にすることに決めたヴェスナー神父と一家は汽車を乗り継いでスイス、フランス、イギリスへと渡り、サウサンプトンからアメリカへ向けて出航した。アメリカでのビザが切れると再び一家はヨーロッパへ戻り、そこでもコンサートを行って、1939年10月に再びニューヨークへやってきた。
[編集] アメリカにて一稼ぎ?
1940年になると大手プロダクションが家族のプロデュースを引き受けることになったが、その時に「トラップ聖歌隊」という名前を改めて「トラップ・ファミリー合唱団」にし、曲目から聖歌を減らしてフォークソングを中心にするよう改められた。こうしてアメリカ中をまわるようになると再び評判を呼び、1956年までコンサート活動をおこなった。1948年、一家はようやくアメリカの市民権を得た。
夫ゲオルクは1947年に亡くなったが、マリアは家族の歴史をつづった『トラップ・ファミリー合唱団物語』(1949年、邦題:『サウンド・オブ・ミュージック』・「サウンド・オブ・ミュージック アメリカ編』)や『トラップ一家の物語』(1955年)などを次々と出版し、ベストセラーになる。印税収入有り。
1956年、ドイツの映画会社がマリアの著作の映画化と関連権利のすべてを9000ドルで買い取った。この時収入を必要としていたマリアがすべての権利を売ってしまったため、以降の映画がもたらした莫大な収入の恩恵に家族はまったくあずかることができなかった。ドイツではこの著作を元に,当時のトップ女優ルート・ロイヴェリク主演の二本の映画(「菩提樹」「続・菩提樹」)が作られ、さらにアメリカのプロダクションがその権利を買い取ってミュージカルを作ろうと考えた。そこでリチャード・ロジャーズとオスカー・ハマースタイン2世の売れっ子コンビが作品化を引き受け、トラップファミリー合唱団の実際の演目を使うという当初のアイデアを捨てて、完全にオリジナル曲を作ってミュージカル化した。
ミュージカルは大ヒットしたが、あまりに現実とかけ離れた物語や父ゲオルクの人物造形にマリアと子供たちはショックを受けた。やがて1965年にジュリー・アンドリュースの主演で映画化されると世界中で大ヒットした。このときもマリアは脚本家に対して、夫ゲオルクの書き方を改めてくれるよう頼んだが、結局聞き入れられなかった。ついでに、トラップ艦長の戦友も養老院で見たところ・・・・・・・・・・・
潜水艦で、アメリカを攻撃しかねないほど激怒した。というより生きていたほうがビックリである。
一家がコンサート活動を終えると、マリアは数人の子供たちとバーモント州ストウにトラップ・ファミリー・ロッジを開き、自給自足の傍ら、訪問者をもてなしながら各地で講演活動を行った。
映画以上の激動の人生を送ったマリアは1987年3月28日に闘病生活の末にこの世を去った。現在、マリアはトラップ・ファミリー・ロッジの一角の墓地にゲオルクらと共に眠っている。
[編集] 外部リンク
- マリアの墓について - Find A Grave